彭鵬会長が書いた論文は

法政大学の『国際日本学』第8号で掲載しました。

        国と人を同一視するべからず

         -日本学研究の人間的方向

彭  鵬

はじめに

私は、かつてある大学の教員が書いた論文を目にしたことがある。その前書きの最初の一句には「人類は自 分を救おうとしたら、互いに共通点を見つけなければならない」とあった。このセンテンスは私にとって、大きな啓発となり、この一句から、私は筆者の博識さと知性の高さ、そして愛情を感じ取った。比較文化の研究の終局的な目標は、共通点を見据えることだと思う。なぜなら、ただ相違点を探すだけなら、比較文化の研究意義は乏しいと言っても過言ではないからだ。つまり、比較文化の研究を通じて、互いの同じ部分を探り、その共通部分を生かすことで、社会に暮らしている人々を指導し、民衆が精神の自由を求めることに協力でき、皆の世界観、人生観を整えることができるようになるのである。換言すれば、人間が自分自身の生存する環境や、自分自身の心の世界を認識することに手を差し伸べることができるよう、われわれは研究しているのではないだろうか。日本学を研究する人にとって、日本を研究し、日本を認識するというのも比較文化研究の中の極めて重要な部分である。即ち、より正確な日本観を樹立することで、研究者個人の思想を発展、進歩させ、個人の反省能力を向上させ、人知・情緒を開拓することが可能になる。ある物事や現象への認識の程度は、私たち個人の知恵の成熟に大きく影響を与える。もし私たちの研究が大きな知恵に至らないならば、大きな世界まで登ることができないのであり、それは非常に残念なことではないだろうか。反省というのは、暗闇における懐中電灯であり、照らしたところには理想が見えるはずである。反省の懐中電灯を持つと、理想を実現することに一歩近づくと言えるだろう。大学院時代、日本学の研究は私の専攻ではなかったので、日本文化及び日本人についての知識は少し足りないかも知れない。しかし、個人の体験と考えに基づいて、自分の日本観を示したい。そうすることで、まず自分の思想を整理できるし、「知ったかぶり」を矯正することもできる。これによって、先生方と討議ができ、さらにご指摘をいただければ、より優れた日本観を形成できることであろう。私は日本文化と日本人論に関する論文をいくつか読んだことがある。それらの中から、基礎知識や学者の方々の知恵を学ぶことができた一方で、疑問も抱いた。そこで関係論文と著作を読み始めたが、疑問もさらに増えたため、より多くの論文と疑問に関する著作を読み進めうるうちに、私は困ってしまった。私は「大声で悩みを明かし、助けを求めると共に、人々と語り合いたい」という気持ちが今に至るまで続いている。

 私はかつて、ある個人の手記のような『愚か者、中国へ行く』という題の本を読んだことがある。内容は、日本人の主人公が中国各地を遍歴する際に遭遇した面白い話や人情風土などを述べたものである。本書の読後感は、春風に吹かれたようであり、とても気持ちがとてもよくなる。この本の最後のセンテンスには「国と人を同一視するべからず。それこそ、あの旅が教えてくれたことだと思う」とある。表現は簡潔でもその含意は深く、強烈なヒューマニズムの精神を表している。「国と人を同一視するべからず。それこそ、あの旅が教えてくれたことだと思う」とは、我々が日本学を研究する時に最も基本的な出発点であり、この出発点こそが我々の諸問題に光を与え、修正や補正をするにあたっての原点となる。同時に比較文化の研究を進める出発点でもある。私が読んだ文化論、社会論の論文は人を中心にしたもの少なく、情緒的な傾向のものが多かった。どの国においても文化と社会を説明するためには、とても広い範囲にわたって考察を進めなければならない。それほど文化論と社会論は大きなテーマである。それらの文献を分析や評論し、なおそこから文化・社会論について一般論や概説を描こうというのは、至難のわざである。なぜなら、一民族の文化は歴史の発展の中の一部分であり、その歴史も時間的、空間的に浮遊しているだけではなく、個々人の心の中に刻まれているからである。一方で、それぞれの文化に対する個人の認知と評価は、ある人の文化そのものへの見方に多くの影響を与えてしまうものである。文化の成立過程は複雑であり、なおかつ計り知れないものがある。だから、安易にその国の国民性がどのようであるか、民族性がどのようであるか語ることは極力避けなければならない。日本研究の先駆者である戴季陶は、かつて次のように言った。「日本は中国を研究する時に、非常に丁寧だし、執拗である。彼らは中国を解剖台の上に置いて、数百回、数千回解剖しながら、テストして、不断に中国の特性を探り、中国の未来について推し量った」。まったくその通りであり、文化的にも、歴史的にも、あるいは国民性についても、日本の中国の研究は甚だ深いものであり、ある部分では中国人が自分の国に対する理解を越えている。しかしながら、日本が完全に中国を理解できたというのは時期尚早である。日本の中国理解は中国文化の正確な解読に止まっており、中国文化と社会への認識はいまなおさらなる分析がまたれる。同様に、世界各国の日本に対する文化と社会への研究はこれからも引き続き解剖と消化がまたれるだろう。性急に結論を出さないことが比較文化学を研究する上で越えてはならない大切な一線である。我々は日本文化を形成している原典と日本社会を反映する具体的な現象をより深く解読しなければならない。しかしながら、現象は結局のところ現象に過ぎず、現象を理解するにはその本質を見る必要があるのだ。本質の把握は簡単なことではなく、無限に本質に近づく行為こそが大切である。

現象と論点の真実のズレ

日本を知るには,現象を深く見つめることだけではなく、自分の情緒をコントロールすることが肝要である。さもなければ、「先入観」に自分の認識が干渉されることになってしまう恐れがある。周知の通り、歴史問題が原因で、多くの戦争被害国の民衆は、日本の文化や社会を理解しようという意欲が減退してしまうこともある。同時に、日本文化に対して、抵抗感を持っている人は少なくなく、日本文化を全面的に否定する人も結構いる。これらのことについて、日本の人も一定の理解をするべきだが、今の日本をよりよく認識することに何の助けにもないし、日本人との交流も上手くいかない。さらに、国の印象だけで人を見る視点に落ちてしまう危険性さえある。例えば、第二次世界大戦後、戦争被害国の中には日本の民衆のアメリカに対する態度が急速に転換したことに気づき、日本人の国民性を特定する傾向の文章が数多くあった。「喧嘩好きであるとともにおとなしく、軍国主義的であるとともに耽美的であり、不遜であるとともに礼儀正しく、頑固であるとともに順応性に富み、従順であるとともにうるさく小突き回されることを憤り、忠実であるとともに裏切りやすく、勇敢であるとともに臆病であり、保守的であるとともに新しいことを喜んで迎え入れる。彼らは自分の行動を他人がどう思うだろうか、ということを恐ろしく気にかけると同時に、他人に自分の不行跡が知られない時には罪の誘惑に負かされる」。また、ある文章には「日本民族には正義感が乏しい。なぜなら、その文化の曖昧性と無常観にこそ理由があるからだ」という視点もある。さらに、「日本には自分の思想はない、他国の理念を自分の都合により使っている」という指摘もある。これらは、私の考えでは、日本文化と日本社会の根本的な属性ではない。「水中掬月」のごとく、目に映る現象には形があり、また意味もあり、それゆえに真実に感じられる。はっきり見えるが、真のものと判断すればすぐ間違える。それは単に夜の月が水に映る姿で、月を掬ってみればすぐにわかることである。要するに、自分の認知力をコントロールすることが必要なのだ。自分の認知力が正しくなると、自分の世界観も正確になるに違いない。

恥と罪

アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトが書いた日本論の古典的著作『菊と刀』を始め、日本学学術論文の傾向は、日本文化が「恥の文化」とよく見なされる。たとえば、ある論文には「『罪の文化』の欧米文化と対照を成している。『罪の文化』は、道徳の絶対的基準を説き、良心の啓発を頼みとする文化である。キリスト教を精神的なバック・ボーンとする欧米人は精神の視点を内面化し、罪の自覚という内面的な強制力によって自己を律し、善行を行う。また、この罪悪感は罪の告白と悔悟によって軽減することができる。これに対して、『恥の文化」』は、何が正しくて何が正しくないかの判断を、『世間』によって決められる文化であるとしている。キリスト教のような超越的な神の観念をもたない日本人は、他人の批評という『外面的強制力』に基づいて自己を律する。日本人にとって恥辱とは、『世間』一般が認めている善行の道標に従えず、『名=体面』が保てないことである」と指摘している。無論、『菊と刀』の成果は重要である。しかしながら、日本文化、日本社会への研究について、さらなる解剖と消化が必要でもある。前述のとおり、急いで結論を出してはいけない。『菊と刀』は日本を研究する方法としては、終着点ではなく出発点なのだ。アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトの日本観はアメリカ占領下の時代の背景によるものであり、今となっては実情にそぐわない面が多い。従って、ルース・ベネディクトの認識に基づき、日本人の国民性を安易に論ずるのは危険である。日本文化は「恥の文化」に属す、というのはほとんど学界の定説になっている。だが、世界の文化を、「恥の文化」と「罪の文化」の二つに分かるのは、単純すぎるし、不十分である。本当の「恥の意識」は「罪の意識」から生まれるのである。「罪の意識」に含まれる「恥の意識」こそ本当の内省意識といえるのだ。「罪の意識」であろうが、「恥の意識」であろうが、文化現象から理論へ、理論からまた相応の現象へと単純に判断することは大きな間違いである。なぜなら、双方を区別する境界線はっきり決めることが無理ではないかと考えられるからである。私からみると、西方の「罪」意識と東方の「恥」意識の形成と変化は「大同小異」である。人類は生存する地方、地域の制限と歴史の影響を受けてきた。人情風土も具体的な個人の活動、生活状況により変化する。そして、人間は感性と精神を持ちながら、能動的に社会を改造・改良する理性的存在である。社会論、文化論の角度から、日本民族は罪の意識がない、正義感が乏しいと判別すると間違いではないかと私はいつも考えている。実は、正義感が乏しいと言っても足りないだけで、「ない」ことではない。正義感がまったくないとするならば、日本は「怪物民族」になるだろう。ちなみに、思想の有無、哲学の有無について論じる時も、注意が必要だ。日本が海外に学ぶことは、太古の時代より始まり、今にいたっても続いている。最初は中国に学び、近代では欧米に学んだ日本民族は勉強が大好きである。そして社会変革を厭わない民族でもある。したがって、日本民族自身の哲学に類似する思想体系は必ず存在すると思う。なぜなら、本当の哲学は社会変革に先導するものであり、すべての社会変革は哲学に導かれないと実現できないからである。

中国人の面子と情緒的な日本人

森三樹三郎が『名と恥の文化』で、「もし、世界文化を『罪の文化』と『恥の文化』を分けると、『恥の文化』の本家は中国で、日本は分岐にすぎない。歴史の進化により、日本と中国の恥文化を内包もしくは分岐している日本は、武士道の名誉心を大切にするが,中国人の多くは面子第一に・・・」と言ったことがある。私はこの分析に賛成する。実は、中国人の多くは面子を大切にしすぎるから、ある物事が極まると必ず逆の方向へ転化する。例えば、面子を追求しすぎて、同士討ちすることや自分の損を招くことがよく起こる。日本人の伝統的な武士道の名誉心はそれと違って、面子のために行動ではなく、仁徳を通じて、信頼と尊重を受ける。中国の古代にも、こういう精神を備える武士が多かった。改めて、こういう精神を学ぶことができれば、中国人自身の発展に有益であろう。面子をそれほど重視しない日本人は、確かに他人の反応や情緒などを重視しているように見受けられることがある。日本のテレビ番組の中に料理番組は多い。たくさんの人々がラーメンや寿司を味わいながら、オーバーな表現で賛美する場面が多く見受けられる。さらに、料理のおいしさにより感動して、涙が出る場面さえある。しかし、平日、そんな顔は町中の食堂ではいないだろう。このような番組を見た外国人が、よく「ヤラセだな」と言っている。しかしこれを「ヤラセ」だと私は思わない。このような番組は誇張ではなく、情緒的な反応なのであろう。海に囲まれている日本は、地理上孤立し、文化面で世界の文化を取り入れ、固有の文化との融合、調和が常に図られていたため、慎重に他の世界を見ながら戦戦兢々として物事と接してきた。日本人が、情緒的になりやすいのは当然であろう。番組の製作もそのような感覚から生まれたのだろうと考えられる。誇張された反応で、視聴者の目を引き、共鳴を喚起するのは日本人にとって、当たり前なことかもしれない。「表面的に見れば、日本人は礼儀正しい。しかしそれは上手く自分の情緒をコントロールしているだけだ。ただ本音を抑えているだけだ。いつ爆発するかわからない。日本人は人格が分裂した民族である」と言う人も少なくない。私から見ると、これも一種の偏見である。日本人は決して愚かではない。日本の生存環境は、昔も今も決して楽なものではない。平地は少なく、資源不足、自然災害の頻発が原因で、日本人は古来、常に緊張状態に置かれている。集団で団結努力し、互いに礼節を持って相手を敬い、時間を大切する観念、細かいところまで真剣に対応する、それらの態度は自然と日本人に身に付いたものとなった。こうしたことからも、感情的な側面からのみ日本人を見るのは危険だ。

日本の忠と中国の孝

孝は、中華文化の核心とよく言われている。孟懿子はかつて孔子に「孝は何だろう」と聞いたことがある。孔子は、「無違(背かない)」だと答えた。「無違」とは、父母が健在なときは礼で接し、父母が亡くなったら、礼で葬儀が行うことである。しかし、今、われわれ多くの中国人は「孝」に対する理解を間違えている。正しいか、正しくないかを考えず、何でも父母の意見に従うべきだと。「無違」というのは、ただ単に両親に従うではなく、礼に背かないことだ。この世には、いろいろな父母がおり、その中には愚かな両親もいるだろう。父母の意見を正しいとするならば従い、正しくないとするならば異を唱えて、「礼」と「仁」の精神を守るべきである。中国人は孔子の時代から千年を経て、「孝」の本意がすっかり変わってしまったことを自覚するべきだろう。日本社会では、「忠」が最高の道徳だと認められている。忠を重視する文化と孝を重視する文化は、どちらが優れているかと聞く人が相当数いる。実は、この問いについての正解はないだろう。さらに、ある学者は「中国人とちがって、日本人の忠の基礎は仁義ではない。日本人の忠の対象は個人や特定な集団に限っている。故に、日本人は善悪観に乏しいという傾向が強く現れる」という説もある。これも個人的な意見にすぎない。古来、中国社会の中では、愚かの忠と愚かな孝がたくさんあった。仁愛を利用して人を害す者も少なくない。だからといって、「すべての中国人は善悪に乏しい」と断言すると大間違いだ。実は、当たり前のことだがどの国にも、いい人もいて悪い人もいるのであり、中国人は何々、日本人は何々という論調になることが、最も危険なのである。国民性についての議論もそうである。各国の国民性にはいい点もあるし、よくない点もある。互いに勉強し、自ら反省するのは、進歩につながる。時代の移り変わりにより、国民性の進化ももちろん期待されている。

戴季陶の心配は依然として存在する

中華民国時代の戴季陶はかつて『日本論』で次のように指摘していた。日本人は『中国』というテーマを、解剖台にのせ、すでに何千回となく解剖し、また試験管に入れて何千回となく実験しているのだ。それに引き換え、われわれ中国人は、ただ排斥と反対の一点張りで、研究はおろか、ひらがなは見るのもいや、日本語は聞くのもいや、日本人には会うのもいや、これではまるで『思想における鎖国』、『知識における義和団』と同じではないか。私が日本で勉強していたころ、同学の友人が何人もいたが、日本語や日本文化の研究をきらった。なぜきらうのか、理由を尋ねると、答えは、日本そのものは研究価値がない。中国やインドやヨーロッパから輸入したもの以外に何もないからだ。というのである。このような人は『自大思想』の弊害に陥っている、と私は思う。今後、中国人はもっと真剣に日本研究に関心を向けるべきだと思う。日本人の性格はどうなのか、思想はどうなのか、習慣はどうなのか、国家および社会の基礎がどこにあるのか、これらすべての点にわたって、真剣に研究しなければならない。日本の過去がわからなくては、今の日本の良さがどこから来たのか、わかるわけがない。現在の実情がわからなくては、将来の動向を推察することはできない。日本を排斥するのも結構だが、そのためにはまず日本を知らなくてはならない。単に学問の領域だけにかぎっても、いろんな角度で専門研究をやってみる価値と必要性があるわけだ。ぼんやり放置してはならない。戴季陶が言ったこの現象は今日も依然として存在している。その原因は、文化の衝突だけではない。くすぶり続ける歴史問題も主な原因である。歴史問題の解決が難航する根本の原因は日本文化と国民性の問題だと指摘する人は少なくない。しかし、中日間の歴史問題の解決の難しさは、実は日本自身の問題ももちろんあるが、根本的な問題はアメリカ合衆国にはあると私は考えている。この点については、今回は紙面の限りがあるため、今後改めて検討したい。今、中国人は反感をもちながら、日本文化と国民性に攻撃するより、冷静に思考するべきだ。そうしないと、情緒に流され、客観的に日本を認識できないし、自分自身の世界観と人生観の形成にも悪い影響を与えることになる。今こそ、戴季陶が言ったことを改めて深く考えなければならないのではないかと思う。

終わりに

この小論に示されたのは、私の日本文化と日本社会に対する考え方である。中国文化から見れば、日本文化は異文化そのものである。日本文化にとっても、中国文化は異文化であるはずだ。相対化の視点から異文化の存在を見る、というのは良い思考方法だと思う。異文化が存在するからこそ、豊かで多様な世界が形成されるのだ。文化には、優等文化と劣等文化の区別はない。そして、互いに対立するものでもない。核心となる理念には共通な部分があるはずだ。この共通点を探すことは人類融合と進化の一番良い方法であり、「和為貴」の精神でもある。互いに異文化の視点を尊重するからこそ、人間は自分を知り、自分を反省することができる。中国と日本の民族性は、共に一方から見れば異質である。だからこそ、互いの長所を活かし合える可能性があるはずだ。今日の中国では日本に対する深い研究と理解があったからこそ、自分の身の回りの環境改善についての思考を啓発され、社会と人生への成長と認識を昇華することができたと言えよう。日本の産院で生まれたばかりのかわいい赤ちゃんの姿を見たことがある。その赤ちゃんたちを見た時、人間というのは、まず人であり、次は同じ文化のもとに生活する人であることを悟った。共感・共鳴する心があることで、一緒に怒り、泣き、笑うことができる。特に言いたいのは、義理、人情、信義、親孝行、敬老精神など、日本人の倫理観の多くを、中国人・日本人の双方が共通して持っているということである。そのような共通点を前提とし、また国と人を同一視するべからずという態度に基づくことで、日中間の交流関係は一層深く、親しくなるに違いない。要するに国のレベルで人と付き合うのではなく、個人と個人の付き合いで相手を理解し、尊重しなければならないのだ。これこそが我々人類の基本態度になるべきであり、日本学研究の前提としても理解すべきことなのだ。

また一方で、社会論、文化論の研究では、研究者それぞれが個性を捨てることに注意を向ける必要がある。なぜなら、確かにそれぞれの個性の中に共通性はあるが、共通性だけで個性の存在を否定や抹殺することには常に注意しなければならないからだ。反対に、個別な対象や現象に対する研究に基づき、全体の把握をおこたることも、研究を阻害することになり、これも要注意である。以上の小論は、自分自身の日本観であり、私の人生観の一部分であると言ってもよいだろう。「生活の中に門がたくさんある。光明を見出す門を開くために、我々は慎重に鍵を一つずつ選ばなければならない」という言葉は、私が高校時代にある中学生向けの雑誌へ投稿した文である。正確に日本を認識するのも光明を見るための鍵である。これからも、この言葉を座右の銘として置きながら、言行という筆を持って、「国と人を同一視するべからず」という思想の墨汁をしみ込ませ、「人」という字を書くよう努力していきたいと思う。

 

参考文献

戴季陶、『日本論』、民智書局、1928 年。

森三樹三郎、『「名」と「恥」の文化』、講談社、1971 年。

星野博美、『愚か者、中国をゆく』、光文社、2008 年。

李航、『道紀』、同心出版社、2007 年。

星野勉、「『菊と刀』にみる「恥の文化」(『国際日本学』第4号、2007年、19-37)